春風萬里?

昨日、娘と孫が帰り、ホッとBSテレビを見ていたら「十津川警部シリーズ」で、地方警察署に掲げられていた額の、『春風萬里』が気になった。この出典はどこから来たのだろうか。このことばかりが気になって,内容は分からなかった。確か、全て上手くいくというような意味だったと思うが、それではあまりにも警察署らしくないような、あるいは「らし過ぎる・・・」様な。今までに記憶に残っているサスペンスドラマでは、有名な相棒の中では『古轍』があり、如何にもドラマの内容を表しているように感じていた。他には厳粛な意味で『源』があった。

肝心な『春風萬里』だが、手元にある『名跡墨場必携』や『漢詩名句辞典』等、幾つかで調べてみたが、全く出てこない。まさか『春風到和』と読み違えたのでは無いかと思うのだが・・・、萬里というのが気になったのだから,読み違いは無いと思うのだが。自分なりに、「春風、萬里を渡る」かな、などと適当に解釈したくらいだから。

ネットでみたら、やはり出典は出ていない。笠間市に魯山人の住居を移築して美術館にした建物を「春風萬里荘」というらしい。『唐詩選』中の、李白の詩文から引用したとのことが載っていた。これもおかしな事で、「黄鶴西樓月 長江萬里情 春風三十度 空憶武昌城」からだとすると、春風は1年を意味し、「春風三十度」はもう30年も経ってしまった、との意味になる。「長江萬里情」は嘗て訪れた長江の雄大な流れを思い出してる、との意味になる。『春風』と『萬里』が繋がらない。

しかしまあ、歳をとると妙に屁理屈をこねくり回すようになるものだ。自分自身が嫌に成る。カアさんが生きていれば、「クダラナイ」という顔をして笑っただろう。ずっと子供の頃、禅語の『行雲流水』の文字をみて、自分も将来は雲水のように自分探しの旅、「人生の師」を求める旅に出られるだろうか、などと随分と深刻に考えたことがあった。10歳までは生きられない、などと言われていたので、変なところで大人びてしまったのかもしれない。「人生の師」は、還暦も大いに過ぎてしまった最近になって、意外と身近にあったことを感じる。子供達が巣立ち、カアさんが逝ってしまい、孤老の日々を過ごす中に、祖父から学んだことを時折思い出し、今頃になって自分で求めてきたものがボンヤリと感じられるようになってきた。

祖父から学んだ古神道的に考えれば、自然に時の中に在るが儘にある自身が「師」であるし、仏教的に考えれば我が心を師と為さず無為無策こそが「師」、ということになるのだろうか。しかし、それさえも覚束ない念いなのだろう。くだらないことで直ぐに余計な思索は、無駄な時間ばかりを過ごしてしまう。いつになったら、我が人生に「春風」の爽やかな風は吹くのだろうか。造語だが、カアさんとの「白骨の交わり」が、不安も恐れも無くなり、在るが儘の過ごし方となり、新たな青春の始まりになるのだろうか。

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