爺ちゃんの教えの極意

子供の頃、小俣の爺から多くの事を学んだ。小学校の中学年まで友達との記憶がほとんど無いのは、小俣に通っては爺から学ぶ事が多くて楽しかったからだ。

爺からは、家に伝わる書風を学び、早くから読みが出来る様に成り、就学前にはほとんどの子供用書籍が読めた。同様に、兵法と農学の話を聞きながら、田んぼに水を張る事で馬が動けなくなり、更に水を増やすと人が動けなくなる。そんな話から算数が好きになった。小俣の和算家達の話しも面白かった。気候や地理の見方なども教えられた。

かつて神道を受け継ぐ家だったが、900年くらい前に義国公から誘われ、占いによって来る事を決めたそうだ。その占い方は母に教えられたが、新興宗教に入信した母は、結局それを自分に伝えることなく亡くなった。

最近、爺の教えの極意とは何だったのかを感じるようになってきた。

古神道は人々をまとめ、平和な生活を守る為の教えだったと思ってきた。兵法、占察の占い、農業や和算や地理や天候、それらは人の生活を守る為のものであると思っていた。

兵法の極意である大の兵法、占察の極意である先人の言葉を聴き祖霊と共に在ろうとする占法、長い間の多くの人達の生き方、それらは別々のものではなく、その爺の話していた話しの基本は全く同じものであるように感じて来た。

天然自然を如何に感じ取り、自らを馴染ませようとするか、その手法の切り口の違いのように思えてきた。巧く言葉に出来ないが、大事な教えを子供達に伝える事が出来なかったのが残念だ。全ては父で終わってしまったように思える。大叔父達も学んだはずだが、その内容は断片的で、まとめられたものではない。

最近、爺の事を懐かしく思い出す。何とか爺の教えようとした事をまとめなければと思うが、文字にしようとすると、まとまらない。まだ精神的に不安定に覚えることもある。もう少し時間が経ったら、まとめなければと思う。

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